2022年5月25日水曜日

中野会跡地と弘田組跡地<中野会

 ◎中野会 

中野会は大阪市天王寺区生玉町12-4に本部を置き、京都府八幡市に本家を置いた指定暴力団。かつては神戸市須磨区寺田町2-1-9に本部を置いていた五代目山口組の二次団体であり、1997年に山口組から絶縁処分以降、8年にわたり独立組織として存在した。2005年解散。

〇略歴 

・山口組 

1936年、中野太郎が大分県日田市に出生。1960年頃、九州より大阪に移り名和組を経て三代目山口組・山健組に加入。1970年、渡邉芳則が山健組内に健竜会を結成すると相談役に就任した。1989年、五代目山口組発足に伴い山口組直参に昇格。1990年、五代目山口組若頭補佐に就任した。1996年7月10日、京都府八幡市の理髪店で、散髪中だった中野太郎が、会津小鉄系組員に銃撃された。中野太郎のボディガードが拳銃で応戦し、会津小鉄系組員2人を射殺。中野太郎は無傷だった。同日、図越利次ら会津小鉄最高幹部が、山口組本部を訪れ、会津小鉄系組員が、中野太郎を襲撃したことを詫びた。五代目山口組若頭・宅見勝は、図越利次らの謝罪を受け入れ、中野太郎と協議することなく和解した。中野太郎は当事者である自身の承諾なしに会津小鉄と和解した事に激しい不満を抱き、宅見勝と激しく対立した。

・宅見若頭射殺事件 

1997年7月、中野会若頭補佐・吉野和利が総指揮をとり、東京都と大阪府の中野会傘下組織から、宅見勝の動向を探るための偵察部隊と襲撃するための襲撃部隊をそれぞれ選抜。同年8月28日午後3時20分頃、宅見勝は五代目山口組総本部長・岸本才三(後に最高顧問)と、副本部長・野上哲男(後に最高顧問)と共に、新神戸オリエンタルホテルのティーラウンジの一番奥まったテーブルに着いた。その直後、中野会傘下の襲撃部隊が宅見勝を銃撃。

宅見勝は38口径と45口径の拳銃で計7発の銃弾を受け、救急車で神戸市立中央病院に緊急搬送されたが、約1時間後の午後4時32分に同病院で死亡した。事件当時、隣のテーブルに座っていた一般人の歯科医師の男性が、流れ弾に当たって重傷を負った。同席していた岸本才三、野上哲男は無事だった。事件から3日後、中野太郎は宅見勝の射殺事件により山口組から破門処分を受けた。同年9月3日、事件に巻き添えとなった歯科医師が死亡した事で絶縁処分となった。中野太郎はこの処分を不服とし、中野会を解散せずに独立組織となった。

・独立組織 

中野太郎は配下組員に対し、中野会残留か、他の山口組傘下組織へ異動するかの判断は各々に委ねるとした。中野会組員は、山健組など他組織へ大量に離脱した。山口組執行部は中野会への攻撃を厳禁とし傘下組織へ通達。(親を殺害された宅見組および天野組等の「宅見一門」は報復行動が例外的にある程度許容された。)中野会本部事務所を神戸市須磨区から大阪市天王寺区生玉町へと移転した。1998年7月6日、在日韓国人であった若頭補佐・吉野和利?は、韓国の高級住宅地にある豪邸で家族とともに潜伏していたが、ソウルで変死体となって発見された吉野和利の遺体からは内臓や脳は全て除去されたおり、さらに血液をすべて搾取されていた。薬物による中毒死の可能性が状況的にも強く示唆され毒殺の可能性が高いという。1999年7月1日、大阪府公安委員会が独立組織として中野会を指定暴力団に指定。1999年9月1日、中野会若頭・山下重夫?が大阪市生野区内の麻雀店で、宅見組若頭補佐・西野保?ら襲撃チーム4人によって射殺された。中野会は山口組から度重なる報復攻撃を受けたが、中野太郎は五代目山口組への報復攻撃を厳禁とし、一度も山口組へ報復することはなかった。2002年4月、中野会副会長・弘田憲二が天野組・山下哲生組員により沖縄県那覇市内で射殺された。山下哲生は、単身で計画し本島から追い続け大金星をあげた。2003年、中野太郎が脳梗塞で倒れた。中野会は山口組から絶縁処分以降、8年にわたり独立組織として存在したが、2005年8月7日、六代目山口組発足に伴い、寺岡修や竹中武らの仲介もあり大阪府警に解散届を提出。中野会を解散し中野太郎は引退した。

○組織図 

会長-中野太郎(元五代目山口組若頭補佐)

副会長-弘田憲二(弘田組組長)

若 頭-山下重夫(山重組?組長)

本部長-近藤大恵

若頭補佐-吉野和利


◎弘田組 

二代目弘田組は大阪市天王寺区生玉町12-4に本部を置いた暴力団。中野会の二次団体であった。

〇略歴 

2002年4月20日、組長・弘田憲二が沖縄県那覇市で、五代目山口組・天野組組員に射殺された。2005年、二代目組長・森田健一の引退により解散。

○系譜 

初代-弘田憲二(中野会副会長)

二代目-森田健一(中野会若頭補佐)