稲川 英希(1976年-)は、日本のヤクザ。指定暴力団・稲川会本部長、三代目稲川一家総長。稲川会3代目会長稲川裕紘(土肥)の実子(長男)
○来歴
昭和51年(1976年)、神奈川県横浜市生まれ。私立相洋高等学校、東海大学工学部卒業。大学卒業後、イギリス留学を経て実業家になった。 しかし転身後、わずか3年、27歳で異例の稲川会本部長に抜擢。 平成18年(2006年)7月19日、京葉七熊一家五代目総長・角田吉男を稲川会四代目とする継承式が横浜市の稲川会系組事務所で行われた。 同時刻、静岡県熱海市の稲川会本家において、「五代目」を継承する儀式を執り行った。しかし、祖父であり稲川会の創設者でもある稲川会総裁稲川聖城が角田側の式に臨席したことも判り、すぐに角田と直接話し合い、角田四代目体制での一本化に合意し、分裂の危機を回避した。 平成19年(2007年)3月、引退した。
2019年9月16日月曜日
ラブホテル「 ニューヨーク(現アトランティス)」302号室AV女優の女性が射殺
1999年3月22日夜、大阪市天王寺区のホテル「ニューヨーク」の客室で元AV女優里中まりあ(本名・桑畑由起子)(22)の射殺体が発見された。彼女は顔の正面から1発撃たれており、現場には短銃1丁と薬莢1個が残されていた。里中まりあは暴力団関係者との交際歴があり、事件の3日前に自宅マンションで暴行を受け車で連れ去られていたことがわかった。遺体に着衣の乱れはなく、連れの男性と口論になり殺されたらしい。同年4月17日、天王寺署捜査本部は、指定暴力団山口組系組員、寺田幸雄容疑者(50)が大阪府堺市内のホテルに潜んでいるところを発見、逮捕した。直接の容疑は銃刀法違反だった。調べに対し、この暴力団組員は事件の関与は 認めたものの、『殺すつもりはなかった。銃をかまっているうちに暴発した』と主張した。結局、この件は最高裁まで争われたが、いずれも棄却され、殺人、銃刀法違反、覚せい剤取締法違反 で懲役17年で結審した。死の真相が『偶発』であったか、『故意』であったかさておき、 彼女が歩んだ人生を通して浮かび上がるのは、『男』と『クスリ』で転んでいった見事なまでの転落ぶりである。東大阪市で不動産業を営む父親と病院勤務の母親の間に3人姉妹の次女として生まれた彼女は、幼い頃から評判の美少女だった。
『小学生の頃はクラシックバレエを習っていた。犬が好きで、友達のポメラニアンをよく散歩に連れて行っていた』(近所の人)
ところが中学に入ると、髪を茶色に染め、短いスカートをはいて煙草を吸い出した。後に本人がAVでのインタビューで語ったところによると『初体験は14歳のとき、1つ年下のジャニーズ系の後輩とした』という早熟ぶりだった。中学卒業後はトリマーの専門学校へ。ところが半年と持たず、中退。フリーターと なってミナミの繁華街などで遊び回るうち、ホスト遊びを覚え、何と17歳で大阪市内のヘルスに入店した。95年2月頃のことだった。その後、6月に大国町のイメクラに 移った彼女は『ゆうき』という源氏名で有名になり、20歳と偽って風俗誌のグラビアにも 登場するようになった。そして約1年後の96年夏、彼女はストリッパー『里中まみ』として劇場デビューする。さらに97年3月には『里中まりあ』と改名し、AVデビュー。『恥じめまして』 『奥までびしょ濡れ』『リアルFUCK!!』など、計4本の作品を残した。ところが、ストリッパーデビューした時期と前後して、急に彼女は『ワガママ』『挙動不審』 『平気で仕事をドタキャンする』といった悪評ばかりが立つようになった。
『ゆうきちゃんは絶対、シャブ食っとるで。ろれつが回ってないことがしょっちゅうあるもん』
彼女の仕事仲間からは、こんな噂が広がっていた。98年夏には劇場も引退。実質無職になったはず だが、『それまで滞納していた家賃をきっちり払ってくれるようになった』(彼女が住んでたマンションの大家) と、急に金回りは良くなった。その頃から彼女と半同棲状態になっていたのが 、くだんの暴力団組員である。『暴力を振るわれていたらしいね。でも、彼女は好きで 付き合っていたようで、『オッサン、オッサン』って呼んでは一緒にいた』(知人の風俗嬢)。ストリッパーを辞めた頃からげっそりとやせ細った彼女。自宅マンションには何人もの 暴力団組員風の男が頻繁に出入りするようになった。事件直前には『お前が言うことを聞かないからだ』と殴られる騒ぎも起きていたという。
大阪府大阪市天王寺区生玉町9-6ラブホテル「 ニューヨーク(現アトランティス)」
◎里中まりあ
里中まりあ(1977年12月15日-1999年3月22日)は、日本のAV女優。大阪府出身。本名は桑畑由紀子。
〇人物
女優としてのプロフィールには「1977年7月7日生まれ」となっていた。身長158cm。スリーサイズは83・57・86。ストリッパーとしてデビュー。芸名は「里中まみ」を名乗っていたが、「里中まりあ」に変更し、その後、アダルトビデオに出演。 1999年3月22日夜、大阪市天王寺区のラブホテル客室で、顔を正面から1発撃たれ、射殺される。21歳没。4月17日、大阪府警天王寺署捜査本部は暴力団組員の50歳の男を殺人容疑で逮捕した。
『小学生の頃はクラシックバレエを習っていた。犬が好きで、友達のポメラニアンをよく散歩に連れて行っていた』(近所の人)
ところが中学に入ると、髪を茶色に染め、短いスカートをはいて煙草を吸い出した。後に本人がAVでのインタビューで語ったところによると『初体験は14歳のとき、1つ年下のジャニーズ系の後輩とした』という早熟ぶりだった。中学卒業後はトリマーの専門学校へ。ところが半年と持たず、中退。フリーターと なってミナミの繁華街などで遊び回るうち、ホスト遊びを覚え、何と17歳で大阪市内のヘルスに入店した。95年2月頃のことだった。その後、6月に大国町のイメクラに 移った彼女は『ゆうき』という源氏名で有名になり、20歳と偽って風俗誌のグラビアにも 登場するようになった。そして約1年後の96年夏、彼女はストリッパー『里中まみ』として劇場デビューする。さらに97年3月には『里中まりあ』と改名し、AVデビュー。『恥じめまして』 『奥までびしょ濡れ』『リアルFUCK!!』など、計4本の作品を残した。ところが、ストリッパーデビューした時期と前後して、急に彼女は『ワガママ』『挙動不審』 『平気で仕事をドタキャンする』といった悪評ばかりが立つようになった。
『ゆうきちゃんは絶対、シャブ食っとるで。ろれつが回ってないことがしょっちゅうあるもん』
彼女の仕事仲間からは、こんな噂が広がっていた。98年夏には劇場も引退。実質無職になったはず だが、『それまで滞納していた家賃をきっちり払ってくれるようになった』(彼女が住んでたマンションの大家) と、急に金回りは良くなった。その頃から彼女と半同棲状態になっていたのが 、くだんの暴力団組員である。『暴力を振るわれていたらしいね。でも、彼女は好きで 付き合っていたようで、『オッサン、オッサン』って呼んでは一緒にいた』(知人の風俗嬢)。ストリッパーを辞めた頃からげっそりとやせ細った彼女。自宅マンションには何人もの 暴力団組員風の男が頻繁に出入りするようになった。事件直前には『お前が言うことを聞かないからだ』と殴られる騒ぎも起きていたという。
大阪府大阪市天王寺区生玉町9-6ラブホテル「 ニューヨーク(現アトランティス)」
◎里中まりあ
里中まりあ(1977年12月15日-1999年3月22日)は、日本のAV女優。大阪府出身。本名は桑畑由紀子。
〇人物
女優としてのプロフィールには「1977年7月7日生まれ」となっていた。身長158cm。スリーサイズは83・57・86。ストリッパーとしてデビュー。芸名は「里中まみ」を名乗っていたが、「里中まりあ」に変更し、その後、アダルトビデオに出演。 1999年3月22日夜、大阪市天王寺区のラブホテル客室で、顔を正面から1発撃たれ、射殺される。21歳没。4月17日、大阪府警天王寺署捜査本部は暴力団組員の50歳の男を殺人容疑で逮捕した。
2019年8月28日水曜日
松島遊廓
松島遊廓は、かつて大阪府大阪市西区にあった遊廓、赤線。松島新地とも呼ばれる。現在もちょんの間が存在する。
○概要
戦前と戦後で場所が異なる。戦前は現在の千代崎1・2丁目にあったが大阪大空襲で焼失。戦後は現在の本田2丁目・九条1丁目に場所を移して赤線として復活。1958年(昭和33年)の売春防止法施行以降、届出上は「料理店」となっているが、「仲居と客との自由恋愛」と称する行為が行なわれている。2018年時点で料金は30分16000円から、1日平均7人の客で、10万円ほどの売り上げが平均的であり、約8万平方メートルの敷地内に104店舗の「料理店」が存在する。
○歴史
旧広島藩士の有田徳一、新町遊廓の大垣屋、船場淀屋小路の侠客堤仁三郎が、木津川と尻無川 に挟まれた寺島の北部(現在の千代崎1・2丁目)への遊廓の開設を願い出て、大阪府知事渡辺昇より1868年(明治元年)2月に振興策として設置が許可された。 寺島の北端(現在の松島公園の北端あたり)に樹齢300年とも言われる松の大木があったことから、寺島の北端は「松が鼻」と呼ばれていた。「松島」の地名は、松が鼻と寺島の一字を取ったと言われている(『松島新地誌』松島新地組合・1958年)。寺島の木津川沿いは江戸時代から市街化され、木津川町、九条村町、寺島町が成立し、船大工の多い地域だった。その他は西成郡九条村字寺島の田地が広がっていた。翌1869年(明治2年)には上記の場所を統合して松島町が成立し、南隣の西成郡岩崎新田との境には堀川が開削され、松島遊廓が誕生した。遊廓の中心となる仲之町の目抜き通りには桜が植えられ、桜筋とも通称された。また、南端の花園町に遷座された大阪天満宮行宮の境内にも桜が植えられ、松島遊廓は桜の名所としても知られていた。このころの料金は、美醜に応じて、上等8銭、中等6銭、下等4銭に分けられていた。松島遊廓の誕生により、江戸時代から続いた新町遊廓は衰退の一途を辿ることとなり、1890年(明治23年)9月5日の大火(新町焼)で大半を焼失。一方、大阪市電第1期線の築港線(1903年開通)と第2期線の東西線(1908年開通)が松島経由で結ばれるなど、交通の便にも恵まれた松島遊廓は活況を呈した。花園橋西詰から西へ伸びる九条通(いわゆる九条新道)には商店街が発達し、昭和初期には心斎橋筋商店街に比肩するほどの賑わいを見せていた。
1869年(明治2年) 松島遊廓開設。『御免遊女街松島廓の園』によると、明治初期には遊女屋や茶屋など計270軒があり、松島橋と梅本橋に大門が設置され、東京の吉原に倣って奇麗壮観な目を驚かすような景観だった。
1871年(明治4年) 市内20ヶ所の遊所に対し茶屋渡世を禁じ、松島へ移住希望者のみ継続営業を許可する通達出される。
1872年(明治5年) 娼妓の性病検査治療のため松ガ鼻に駆黴院開設。町名を松島町・松島上之町・仲之町・高砂町・緑町・十返町(とがえりちょう)・花園町・月見町・雪見町の9町に改編。
1875年(明治8年) 大阪天満宮行宮が本田二番町より花園町へ遷座。
1876年(明治9年) 廃業者続出し一時廃れた。
1878年(明治11年) 西南戦争後の好景気により娼妓約1000人となる。
1879年(明治12年) 松島上之町を松島町に編入、緑町を高砂町に編入、月見町・雪見町を花園町に編入し、松島町・仲之町・高砂町・十返町・花園町の5町に改編。
1881年(明治14年) 清国女性を3名雇い入れる。
1883年(明治16年) 駆黴院が性病専門病院「府立難波病院」に刷新
1884年(明治17年) 松島事件(陸軍兵士と警察官の乱闘事件)が発生。
1894年(明治27年) 娼妓約3200人。
1900年(明治33年) 娼妓の自由廃業が認められた娼妓取締規則成立により約1000人が廃業
1916年(大正5年) 娼家計267軒、娼妓4103人を数え関西第一の遊廓となる
1926年(大正15年) 松島遊郭疑獄
1938年(昭和13年) 登楼時間が制限され、午前1時までとなる
1939年(昭和14年) 午後11時以降の歌舞音楽禁止
1940年(昭和15年) 貸座敷取締規制改正により昼間の登楼禁止となる
1945年(昭和20年) 大阪大空襲により全焼
1947年(昭和22年) 九条へ場所を移し、松島新地として営業再開
1948年(昭和23年) 三業(置屋・待合・料亭)分立の制度成る
1952年(昭和27年) 尻無川の上流区間(境川運河以北)埋立。
1958年(昭和33年) 売春防止法施行により廃止 - 以後、料亭街「松島料理組合」ということになっているが、料亭の仲居との自由恋愛との名目により営業形態はそれほど変わっていない。なお、大阪府は条例でソープランドを許可していない。
2012年(平成24年)3月 女性の訴えにより悪質なスカウトと売春強制を繰り返していた経営者らが逮捕された。
○交通
Osaka Metro中央線 九条駅下車
Osaka Metro長堀鶴見緑地線 ドーム前千代崎駅下車
阪神なんば線 九条駅、ドーム前駅下車
阪神高速道路16号大阪港線 九条出口、本田入口
○概要
戦前と戦後で場所が異なる。戦前は現在の千代崎1・2丁目にあったが大阪大空襲で焼失。戦後は現在の本田2丁目・九条1丁目に場所を移して赤線として復活。1958年(昭和33年)の売春防止法施行以降、届出上は「料理店」となっているが、「仲居と客との自由恋愛」と称する行為が行なわれている。2018年時点で料金は30分16000円から、1日平均7人の客で、10万円ほどの売り上げが平均的であり、約8万平方メートルの敷地内に104店舗の「料理店」が存在する。
○歴史
旧広島藩士の有田徳一、新町遊廓の大垣屋、船場淀屋小路の侠客堤仁三郎が、木津川と尻無川 に挟まれた寺島の北部(現在の千代崎1・2丁目)への遊廓の開設を願い出て、大阪府知事渡辺昇より1868年(明治元年)2月に振興策として設置が許可された。 寺島の北端(現在の松島公園の北端あたり)に樹齢300年とも言われる松の大木があったことから、寺島の北端は「松が鼻」と呼ばれていた。「松島」の地名は、松が鼻と寺島の一字を取ったと言われている(『松島新地誌』松島新地組合・1958年)。寺島の木津川沿いは江戸時代から市街化され、木津川町、九条村町、寺島町が成立し、船大工の多い地域だった。その他は西成郡九条村字寺島の田地が広がっていた。翌1869年(明治2年)には上記の場所を統合して松島町が成立し、南隣の西成郡岩崎新田との境には堀川が開削され、松島遊廓が誕生した。遊廓の中心となる仲之町の目抜き通りには桜が植えられ、桜筋とも通称された。また、南端の花園町に遷座された大阪天満宮行宮の境内にも桜が植えられ、松島遊廓は桜の名所としても知られていた。このころの料金は、美醜に応じて、上等8銭、中等6銭、下等4銭に分けられていた。松島遊廓の誕生により、江戸時代から続いた新町遊廓は衰退の一途を辿ることとなり、1890年(明治23年)9月5日の大火(新町焼)で大半を焼失。一方、大阪市電第1期線の築港線(1903年開通)と第2期線の東西線(1908年開通)が松島経由で結ばれるなど、交通の便にも恵まれた松島遊廓は活況を呈した。花園橋西詰から西へ伸びる九条通(いわゆる九条新道)には商店街が発達し、昭和初期には心斎橋筋商店街に比肩するほどの賑わいを見せていた。
1869年(明治2年) 松島遊廓開設。『御免遊女街松島廓の園』によると、明治初期には遊女屋や茶屋など計270軒があり、松島橋と梅本橋に大門が設置され、東京の吉原に倣って奇麗壮観な目を驚かすような景観だった。
1871年(明治4年) 市内20ヶ所の遊所に対し茶屋渡世を禁じ、松島へ移住希望者のみ継続営業を許可する通達出される。
1872年(明治5年) 娼妓の性病検査治療のため松ガ鼻に駆黴院開設。町名を松島町・松島上之町・仲之町・高砂町・緑町・十返町(とがえりちょう)・花園町・月見町・雪見町の9町に改編。
1875年(明治8年) 大阪天満宮行宮が本田二番町より花園町へ遷座。
1876年(明治9年) 廃業者続出し一時廃れた。
1878年(明治11年) 西南戦争後の好景気により娼妓約1000人となる。
1879年(明治12年) 松島上之町を松島町に編入、緑町を高砂町に編入、月見町・雪見町を花園町に編入し、松島町・仲之町・高砂町・十返町・花園町の5町に改編。
1881年(明治14年) 清国女性を3名雇い入れる。
1883年(明治16年) 駆黴院が性病専門病院「府立難波病院」に刷新
1884年(明治17年) 松島事件(陸軍兵士と警察官の乱闘事件)が発生。
1894年(明治27年) 娼妓約3200人。
1900年(明治33年) 娼妓の自由廃業が認められた娼妓取締規則成立により約1000人が廃業
1916年(大正5年) 娼家計267軒、娼妓4103人を数え関西第一の遊廓となる
1926年(大正15年) 松島遊郭疑獄
1938年(昭和13年) 登楼時間が制限され、午前1時までとなる
1939年(昭和14年) 午後11時以降の歌舞音楽禁止
1940年(昭和15年) 貸座敷取締規制改正により昼間の登楼禁止となる
1945年(昭和20年) 大阪大空襲により全焼
1947年(昭和22年) 九条へ場所を移し、松島新地として営業再開
1948年(昭和23年) 三業(置屋・待合・料亭)分立の制度成る
1952年(昭和27年) 尻無川の上流区間(境川運河以北)埋立。
1958年(昭和33年) 売春防止法施行により廃止 - 以後、料亭街「松島料理組合」ということになっているが、料亭の仲居との自由恋愛との名目により営業形態はそれほど変わっていない。なお、大阪府は条例でソープランドを許可していない。
2012年(平成24年)3月 女性の訴えにより悪質なスカウトと売春強制を繰り返していた経営者らが逮捕された。
○交通
Osaka Metro中央線 九条駅下車
Osaka Metro長堀鶴見緑地線 ドーム前千代崎駅下車
阪神なんば線 九条駅、ドーム前駅下車
阪神高速道路16号大阪港線 九条出口、本田入口
2019年8月23日金曜日
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